宗祖さまのおことば

ほったーが日記で懐かしい話題を取り上げてたので引用してみる。

なんつーか、困ってる友達の力になれるって幸せな事だなと思う。俺もその人には随分助けられたからな、いくらでも優しい言葉をかけれるし優しくできる。一人じゃ折れてしまいそうな時に助けてくれた恩返し、って訳じゃないけどさ。
こんだけ無償で他人に尽せる自分はまだまだ捨てたもんじゃないな、とちょっと思った(自分で言う事じゃないけどな…笑)。


(うちの高校の内輪ネタになるが、)ちょっと宗祖様の御言葉を思い出した。「人は一人で生きていくのは困難です。思いやりの気持ちをもちましょう」(後半あやふや…)みたいなやつ。学生時代は馬鹿にしてたけど、あの御言葉の数々は人生の真理を捉えてると思う。最近特に実感してる。自分以外の人に対する感謝の念は忘れちゃいかんな、と。

うちの高校は辯天宗という仏教系の宗教団体が作った学校である。宗祖さまは確か大正時代くらいに生まれた女の人で、小さい頃から神通力があって、身内の死を予言したりしたんじゃなかったっけな。でお坊さんと結婚後、辯財天さま(いわゆる七福神の弁天さんだ)からの啓示を受けてこの宗教を開いたのである。多分。(あやふや)
でまぁ宗祖さまなので数々の名言を残しておられて、それが「宗祖さまのおことば」として今でも信者たちの間に受け継がれてるわけだね。
で、うちの学校でも、毎朝朝のおつとめがあって、校内放送で簡単なお唱えが流れてくるのでみんなでそれに合わせてお唱えをした後に、この「宗祖さまのおことば」ってのも一日一個ずつ放送されるわけね。日直はそれを日誌に書かなきゃいけないんだよね(笑)。時々ぼーっとしてて聞き忘れたりして、「なぁなぁ今日のおことばって何やったか覚えてる?」とか友達に聞いたりして。


確かに今思えばいい事を言ってるんだなぁと思う。どんなのがあったかうろ覚えなので調べてみた。あーこんなのあったあった。
「災いは口からと申します ことばを慎みましょう」
「してやるのでなくさせていただくのです」
「人を目安にしていてどうして徳が積めますか」
「すべての原因は自分にある」
「明日に表れる因縁を悟って今日の善根を積みなさい」
「ああしたらこうしてくれるだろうというその心をなくしなさい」
「実行しなさい 考えているだけではだめです」
「どんな人にも どんな物にも 好き嫌いのない水の心で接しなさい」


と言っても中学生高校生のひねくれ坊主たちにはとってこのおことばはまさに右から左で「それ当たり前のことやん!」とか突っ込むだけでしたね。
でも今になって「ああ、そうだなあ」って思うわけだ。
私は何か宗教を信じることは悪いことだと思わない。どんな宗教にしろ、宗祖(開祖)というのは本当に徳のある立派な人だと思う(まぁ一部の宗教は除くとしても)。
ただその中核のすばらしさが信者すべてに行き渡るかというとそうではなくて、伝言ゲームのように、末端に行くほどその真意がズレてしまう。そういう信者を見ると、無信仰の人には何か変に見えてしまうわけだ。


ある人の受け売りだけど、宗教というのは、自分自身で答えを出さずに始めから他者に答えを求めるためにあるものだ。
人間は、生きていく上での方針や、ポリシーや、価値判断を、自分自身の経験と知識から少しずつ築き上げていく。そうやって、何が善で何が悪か、何が正で何が誤か、ひいては、何がこの世の真理なのか、を探して見つけていくのだ。
何か宗教を信仰するというのは、そういった自分の判断をすべてその宗教の判断にゆだねるということだ。自分自身で探す代わりに、まずその教えが「これが真理なのです」と提示してくる。信者はそれを全力で受け入れていく。自分で真理を探し出す必要がない代わりに、それまで自分が作り上げてきた判断をすべて捨ててしまわなければいけない。それはとても難しいことだと思うけど、本当に信仰できるのなら、信仰の先にあるのは絶対的な正/善/真理である。(少なくともその人にとっては、という意味だ)
自分で世界を作っていくのは難しい。自分は本当に正しいのか、常にその疑問はつきまとう。実生活で不幸や苦労を多く抱える人にとってはなおさらだろう。そんな人にとって、宗教は、一発で解決できる答えを眼前に差し出してくれる存在なのだ。
いわばZ会の参考書だね。めっちゃ難しいけどやれば合格できるよみたいな(笑)。


と、私は思うわけです。何か意見があったらぜひお願いします。